2013年11月29日金曜日

世田谷城散歩(3) 滝坂道で三宿城へ


(00:00)豪徳寺の北、お地蔵さんの立つ辻を出発、滝坂道を歩いて三宿城に向かいます。時間がどれくらいかかるか計ってみましょう。

三宿城は国道246号線沿い、地下鉄田園都市線「池尻大橋駅」から近い高台にあります。城か砦があったと言い伝えられていますが遺構はありません。言い伝えだけで確証はありませんが、「世田谷の中世城塞」は明治42年測量の地図に土塁跡を示す記号があるので「あった」と推測しています。現在の多聞小学校の建つあたりです。城内に多聞寺という名の寺があったため多聞寺城(砦)とも呼ばれています。


赤で囲った世田谷城から濃いブルーで囲った三宿城まで黄色の滝坂道を右に行きます。
両側を流れる北沢川(北)と烏山川(南)は淡いブルー



滝坂道を東へ江戸に向かうと、左に北沢川、右に烏山川を見ながら尾根伝いを行きます。
(00:16)環状七号線までは昔のままのくねくね道が続きますが、道は環七に中断され、向う側に続くのが見えています。環七を渡りながら、川に向かって土地が下っているのが道路の起伏で読み取れます。二つの川に向かって土地が下がり、川から再び上って行く形がよく見えます。

曲がりくねる古道で車がすれ違うのは大変です。

滝坂道を環状七号線が横断しています。

環状七号線  滝坂道から南に流れる烏山川(暗渠)

環七の北を流れる北沢川(この部分は暗渠)

環七を超えると間もなく淡島通りと合流して、滝坂道は一気に21世紀の喧噪に包まれます。


現在の淡島通り。道はやっぱり曲がりくねっています。
(00:21)しばらく行くと鎌倉街道と書かれた道と交差し、その道を北に向かうと北沢川を渡り、橋には「鎌倉橋」と書いてあります。

鎌倉道と伝えられる場所は実はいくつかあって、確実な経路は分かっていないようです。だたこの辺りを通っていたことは間違いないと見られていて、現在の環七の場所にあった「堀之内道」が鎌倉道だった、とみる人もいます。

このクネクネ感はやはり古道

鎌倉橋

北沢川は下北沢駅周辺の一区間だけ、水を浄化して緑地を形成しています。
かつてもこんなに綺麗だった、という意味ではありません。


道はひとつだけとは限りません。時代とともに変わることもあるでしょう。確実に「これだ!」とは言えないものかもしれません。ただ、どうも川辺よりも高台を通っていたようですね。世田谷城の南を行く津久井往還も高い場所を通っています。当時の道は低地をさけたのでしょうか。水がつくと怖いから。

室町幕府があったころの世田谷城は鎌倉との結びつきがつよく、鎌倉中道がそばを通っていました。小田原北条氏の傘下に入ると小田原や、江戸城との結びつきが重要になったために現在の代官屋敷前の通りが開発されて『新宿』と呼ばれるようになりました。人と物資の流れが変わっても交通の要所を抑える、という世田谷城の重要性は変わらなかったのですね。




黄色が北沢川と烏山川 橙色が滝坂道 赤いカギ印は土塁跡
土塁の左にある道路を隔てて「三宿の森緑地」と三宿神社


(00:31)やがてその淡島通りが北沢川と交差するところで旧道にもどります。お地蔵様の右の坂を登りきると三宿城のあった場所です。台地の先端部分にあたり、現在世田谷区立多聞小学校があります。実際歩いてみると、このあたりどこに砦を構えてもおかしくない戦略的に良い地形であることがわかります。


旧道沿いのお地蔵さん 後ろの道が淡島通り



坂を登ると左に多聞小学校 先の森が「三宿の森緑地」

世田谷区立多聞小学校  あいにく工事中で校庭は見えませんが、土塁があった、と
見られていますが遺構は発見されていません。

ここにあった多聞寺は勝国寺の末寺であったことから吉良氏との関係がうかがわれます。詳細は不明ですが、三宿城が世田谷城の支城だったとみられる所以です。現在寺はなくなっていて、三宿神社の隣に墓地だけ残っています。

台地の突端にあって三方は崖、尾根続きの背後を掘り切ってしまえば防備は万全。立派な城になります。見晴らしは申し分なく、現在の渋谷周辺まで見渡せます。世田谷城の東を抑えるのに理想的な立地です。

崖の下で北沢川と烏山川が合流して目黒川になり、現在の「池尻」の地名が示すように往時はおそらく湿地が広がっていたことでしょう。
東 渋谷方面

南 池尻方面

北 駒場方面
左の工事現場が多聞小学校 
道路の向う、車が止まっているところが「三宿の森緑地」。 砦はどちらに?

(00:33)城はここだ!

私が城主なら多聞小学校より世田谷区立「三宿の森緑地」に主要な曲輪を配置するでしょう。いきなり築城を命じたくなるほど城にはピッタリの地形です。多聞小学校より数メートル高いところがいいですね。(世田谷城を出発してここまで歩いた時間の積算が33分でした。)

公園に足を踏み入れるなり、中世の山城の匂いが漂うではありませんか。公園が曲輪に見えてきます。 ここにあったかもしれない砦なり城の姿が目に浮かびます。

公園の案内図が縄張り図に見えてきてコマッタ。

土塁だったら・・・とても自然。

公園の入口は虎口、土塁の上に木が?


曲輪の周囲に土塁?


公園は石積みの崖の上  ここは一段下がった場所の三宿神社ですが、
曲輪を思い浮かべませんか?
 
空堀が・・・

左が公園 右側の尾根を断ち切る道路(空堀?)  前方は池尻
昭和の初めには個人の所有する広大な宅地でしたが、戦後は国有地になりしばらく前まで法務省の研修所として使われていました。戦前の所有者の残した庭園遺構があちこちに残ることで、山城らしい雰囲気を醸し出しているのかもしれません。

心憎いほど手入れが行き届いた広々とした空間を見て、一瞬時間のバランスを失ってしまったようです。城の遺構はありません。すべて私の空想の中のお話。自然に空想がわいてくるような立地、地形です。土塁はなくなっても地形は残りますから・・・。

遺構はなくても、この公園の特異な表情のおかげで具体的に城跡を感じることができました。

世田谷城からまっすぐ起伏のない平板な尾根道なので、東から来る敵はまずここで叩かなければならない!きっと重要な出城だったに違いありません。世田谷城からここまで徒歩で33分しかかかりませんでした。緊密な連絡に支障はないでしょう。

世田谷城は合戦がほとんどなかった、と言われますが、城としての形態、備えはしっかり「戦国」していた・・・みたいですね。 (つづく)

2013年11月28日木曜日

世田谷城散歩(2) まわりは寺と砦

世田谷城に遺構はあまり残っていません。世田谷線上町駅から歩いて3分くらいの世田谷城址公園はエセ石垣に騙されて本来の姿を失っていますが、じっくり見ると立派な土塁や空堀の姿が、ホラ見えてくるでしょ、不思議です。城址公園の石垣は土留めと城のイメージに合うので追加したのでしょうが、往時は土を盛っただけだったはずです。


世田谷城祉公園


公園に設置された案内板 北の広い敷地は豪徳寺

公園とその背後、土塁の残る部分です。 濃いグリーンは現存する土塁
城域を取り囲む細かい二重の点線は烏山川

公園をじっくり見て案内版を読めば「ああ、お城だったのだ。」と納得できるかもしれません。後ろに続く私有地に残る土塁や空堀はしっかり中世の城の面影を残しています。

豪徳寺の参道入り口の門をくぐり、山門に向って右側を注意して見ると、コンクリート塀の向うに土塁の頭が見えます。左側にも同じ土塁があったと思いますが、今はありません。右側の塀が終わったあたりで振り返ると土塁がしっかり観察できます。現在の参道は当時は空堀だったろうと見られています。土塁と合わせると高さは数メートルを超す規模です。

左奥に見えるのが豪徳寺山門 右の塀のむこうに土塁が見えています。

赤線の塀は2メートル。その上にさらに5,60センチ土塁が見えています。
3メートルぐらいの土塁だったのでしょうか。手前の空堀を加えるとその倍ぐらいでしょうか。


塀が途切れた場所から振り返ると土塁の大きさがわかります。


少し先の空地の反対側にも土塁がよく見えたのですが、久しぶりに行ってみると土盛がしてあってよく見えなくなっていました。何か建物が建つのでしょうか、残念です。建物が建つと土塁はすっかり見えなくなってしまいますね。

宅地跡の土塁が道路から見えていました。
豪徳寺参道横の土塁の対面です。

改築で建物を壊したばかりの家の庭です。土塁の高さは3メートル近いですね。


世田谷城の縄張り、城のなりたちは1979年世田谷区教育員会が出した『世田谷の中世城塞』を参考にしました。情報が極めて少ないため、城の全体像はよくわかっていません。発掘調査はこれまで豪徳寺の敷地を含め7回行われていますが、2005年に行われたのが最後で、今後の予定もありません。

豪徳寺の正門から西に一本の道が出ていて、今は暗渠になった烏山川をこえると目の前に勝光院の森が見えます。実に近い。300メートルぐらい離れているでしょうか。目と鼻の先、ほとんど城の中といってもよいくらいです。

勝光院は14世紀、初代世田谷吉良氏、治家(はるいえ)の創建と伝えられています。広い。うっそうとした竹林が残っていますが、敵が近寄りがたくするように竹を植えた名残でしょうか。「竹の上」にもこのような竹林が広がっていたことでしょう。
先の森が勝光院  ここから参道だったのでしょうか。

豪徳寺の半分近い広さ

やや高台

左が本堂

ここだけ音が抜けたように静かです。

勝光院の北、300メートルほど行くと世田谷八幡があり、これも広い。大きな曲輪が3つぐらい楽に作れそうな広さです。近くの町内の神社にはない大きさに、まず目を見張りました。

世田谷線宮の坂駅をはさんで見える豪徳寺の森
呼べば聞こえる距離?



「宮の坂」の元になった坂 拡張整備される前はもっと険しかったそうです。
ちょうどいい広さの曲輪を利用した?

土塁があったのでは?

すぐ横に空堀を掘れば・・・いつでも砦
この段差、気になりますね。

世田谷八幡も吉良氏の創建と伝えられ、城の弱点と言われた西側を守るため緊急時には城の役目を担った、とみられています。この先さらに300メートルほど行ったところにある常徳院も滝坂道に面してして、「いざ」という時を考えた、とみられています。

常徳院
 


ここまでの寺は城の西側を守っていますが、東にある勝国寺からは城がよく見えると同時に崖の上にあるので守りやすく、見張りの役にはうってつけの位置にあります。

勝国寺
コンクリート壁の上が勝国寺の墓地 下は烏山川の暗渠
 
勝国寺から見える豪徳寺の森 家がない頃はもっとよく見えたでしょう。



このほかにも赤堤砦(現 善性寺)、弦巻砦(弦巻神社近くのドングリ山)などの名前が伝えられていますが遺構は一切残っていません。しかも崖の上にある勝国寺以外はいずれも城郭とするには平坦で、やや周辺よりすこし高めかな、という程度。防御に特に有利な地形には見えません。見晴らしがきく、といった程度です。

主要な城域がやや狭い分、周りの砦や寺が緊急時に補うことで全体として城の機能を維持したのでしょうか。緊急時の城、というより分散した城なのかもしれません。私の勝手な想像ですが・・・。

ちょっと離れた三宿城はどんな場所でしょうか?滝坂道を東に向かってみましょう。(つづく)

2013年11月27日水曜日

世田谷城散歩(1) カギ型に曲がる道

東京の世田谷城祉にわざわざ足を運ぶ人はあまりいないでしょう。すっかり住宅地の公園になっているので近所の人は頻繁に利用するでしょうが、わざわざ見物に行く人は少ないのでは。中世城郭に興味がある人でも一度行けば充分。緑が多く、適度に高低差があるのでイヌの散歩にはピッタリです。

平山城ですから遠くからはよく見えません。1~2メートルほど周りより高台にあるだけです。外堀の役目をはたす烏山川(からすやまがわ)が南側を取り囲むように流れていますが、細いし暗渠になっているのでただの通路にしか見えません。一目で城だとわかる場所ではありません。


←豪徳寺駅、山下駅    世田谷城址公園    上町駅→


緑の多い静かな公園です。


50メートルほど先には暗渠になった烏山川

世田谷線上町(かみまち)駅から見える城址公園の紅葉

高い石垣もないし、こんなところにどうして城を建てたのかと不思議に思っていました。火矢を放てば簡単に届いて館が炎上しそうで危なっかしい。城主は吉良家で室町時代の将軍家とつながりがある家系なので、城よりシャレた館のほうがふさわしかったかな、と想像しておりました。館は豪徳寺の場所にあった、とみられています。

ところが10月に小田急線豪徳寺駅の近くで偶然見つけた一枚の案内ピラをきっかけに、実はそれなりによく考えたスゴーイ城だったのではないか、と見方が変わりました。

滝坂道の案内



世田谷城のすぐ北を甲州方面に向かうかつての幹線道路が通っています。調布の滝坂下で甲州街道に合流するので「滝坂道(たきさかみち)」と呼ばれていますが、古くは「甲州中出道」と呼んだようです。徳川幕府が甲州街道を整備するまでは青山から八王子に向かう主要な街道でした。特に吉良氏が小田原北条氏の傘下に入ってからは八王子城に至る重要な街道になりました。

江戸を出て西に向かう滝坂道は、世田谷城のすぐ北で90度屈折して南に向かいます。上の写真を見てもらえばよく分かりますが、さらに150メートルほど行って再び90度、こんどは西に曲がります。城主の吉良氏が城に向かって馬や兵が直進するのを阻止するために整備した、と言われています。途中でS字型のカーブも入れてあります。

さらに滝坂道と世田谷城の間に竹を植え、この竹林が兵や馬の城への接近を阻害していたと伝えられています。「竹の上」という地名が残っています。

このカギ型に曲がる二つの辻に名前をつけよう、貴重な過去の遺産を後世に残そう、という運動が地元の「豪徳寺駅周辺風景づくりの会」を中心に起きています。現在ひろく名前を募りながら地元の昔を知ろうとする集会「古老に聞く」を続けています。私が見たビラはこの呼びかけでした。

滝坂道はこの辻で90度南に折れます。かつてこの角に庚申塔と
道標があって「東青山 北甲州街道」と書いてあった、と伝わっています。

S字型にくねらすのは先を見えにくくするとか・・・

さらに90度西へ。この先でもS字型に曲がります。

辻の角に立つお地蔵さん


カギ型に曲がる?
世田谷城の南側にも90度カギ型に曲がる道があるけど、北側にも?

世田谷城は鎌倉道に沿った西南に大手があったと見られています。現在の世田谷区役所のあたりに宿場がありましたが、吉良氏が小田原北条氏の傘下に入るようになって宿場がやや南に移って『新宿』と呼ばれるようになりました。世田谷の年末年始の風物詩「ボロ市」は小田原北条氏がこの『新宿』で始めた楽市から始まって、今に続いているものです。

現在の世田谷通りは直進しますが、本来はこのように左折していました。


さらに右折すると通称「ボロ市」通り 代官屋敷はこの先です。


天正6年(1578年)楽市を定めた北条氏政の書状   世田谷区立郷土資料館
『新宿』とは現在の『世田谷通り』から『ボロ市通り』のことで、歌舞伎町のあるにぎやかな新宿とは違います、念のため。小田原北条氏時代には首都「小田原」と地方都市「江戸城」、「江戸城」と「津久井城」を結ぶ重要な街道として『津久井往還』とも『矢倉沢往還』とも呼ばれました。この道も宿場の入り口で2回90度屈折しています。

南北に主要な街道が通る世田谷城には交通の要所を抑える、という重要な任務があったのです。

大きな合戦はなかったようですね、やっぱり。永禄12年(1569年)武田信玄が八王子の滝山城を攻めて、小田原にむかう途中、世田谷を通ったようですが世田谷城を攻めた、という記録はないようです。どうやら城主の世田谷吉良氏が室町幕府、鎌倉公方足利氏と縁続きで格式の高い家系であったのが幸いしたのでしょうか。しかしこの格式の高さが小田原北条氏に狙われ、吉良氏は二代にわたって婚姻関係を結んで「北条化」することになるので、運命とはわからないものです。

赤線で囲った世田谷城を挟むように流れる黄色い線の(北)が北沢川、(南)烏山川
ブルーの線(北)滝坂道、(南)津久井往還、ピンクは想定される鎌倉中道のひとつです。
「世田谷の中世城塞」1979年世田谷区教育委員会の地図を使用


世田谷城を防御する川は、烏山川のほかにもう一つあります。すこし北に離れていますが西から東に向かって北沢川(きたざわがわ)が流れています。この北沢川と南側の烏山川が間を狭めながら西から東に流れ、やがて現在の池尻で合流して目黒川になります。川の大部分は暗渠になっているので、「川」の部分はかなり想像力で補わなくてはなりません。

「古老に聞く」では興味深い昔の写真も見せてくれました。昭和初期の豪徳寺駅近くを流れる北沢川は今よりはるかに水量もあるし川幅もあります。水浸しになったこともあるそうです。

川といえば今ではすっかり護岸工事や治水、橋で整備されていますが、もともと想像できないくらい扱いづらく、自由な通行の障害だったようです。しかも流れる水に加えて、川の周りは湿地帯を伴っていてとても歩きにくいのです。さらに世田谷城の周りには寺や神社、砦が配置してあって、ことあれば城に変身する、と言い伝えられています。

周りを川と湿地に加え、多数の砦とにわか砦に守られた世田谷城は、実際は容易に近づけない要害の地だったことがわかりました。城址公園だけ見て小ばかにしてゴメン。 (つづく)