2012年11月18日日曜日

倭城マラソン(11) クッポ(亀浦)城

2012年10月14日(日) 都会の癒し亀浦(クッポ)城

   クッポ倭城は地下鉄の駅から近いわりに静かで、中世城郭の形と面影を今も偲ぶことができる。癒やされるかどうかはまったく個人的なことで、押しつけるつもりはもちろんない。

   すぐ下を高速道路が走っていても、隣で工事用のクレーンが作動していても、絶えることなく都会の騒音が低く聞こえていても、山頂に広がる曲輪にはキジが遊び、カチガラスがさえずり、行くたびにどういうわけか周りとは隔絶された空間が広がって、時代を越えて孤独にひたれる場所だ。


帯曲輪から主郭を見上げる



大手(左)を入ってすぐの帯曲輪

近所の女性が料理用にドングリを取りに来ていた
主郭 天守の遺構はない 手前の盛り上がりは墓
主郭(右)とその周りを取り巻く帯曲輪


   石垣フェチの私には何よりも石垣が心にしみる。無条件にきれいだ。何度も来ようとするのは心の高まりを確認するためかもしれない。

   プサン城やトンネ城から山並みを越えたナクトンガン(洛同江)を見下ろす丘陵の突端にある。文禄の役が始まって間もない1592年に小早川隆景、立花宗茂によって築城された。その後一旦廃城になったが、慶長の役が始まって黒田長政が近くのヤンサン(梁山)城から移って再び使用されるようになった。しかし間もなく黒田長政もさらにソセンポ(西生浦)に移ったために、その時点で廃城になった、と見られるナクトンガンの対面、やや南にある金海竹城倭城の支城としての役割を担った、と見られている。

城郭談話会の堀口健弐さん作成の縄張り図を使わせてもらった。
倭城研究シンポジウムⅡから複製、加筆

   ①主郭   ②薬師如来像   ③緑色で囲った部分がお寺の境内   ④道路に「クッポ倭城」の案内 史跡への入口   ⑤大手と考えられる虎口 斜面を下ったところにも石敷の遺構があるが、現在立ち入り禁止   ⑥かなり埋まっているが堀切が残る   ⑦ベンチ、ブランコなどがある小さな公園 周りの石垣がよく見える   

   現在はクリョンサ(九龍寺)という仏教の寺が城郭の中に建っていて、本堂の一段上の曲輪に立つ薬師如来像にはお詣りに来る人が多い。

   地下鉄2号線トクチョン(徳川)駅を降りて川沿いの大きな道を4、5分北に向かい、高速10号線の下をくぐってすぐ右側の九龍寺を過ぎて100mほど行くと、城址への案内と登り口がある。


薬師如来像   2011年3月撮影


   史跡としての「クッポ倭城」の公式な入口だが、私は最近お寺の境内を通って城跡に登る道が気に入っている。私も仏教徒であり、薬師如来なら昔から慣れ親しんだ仏像である。仏の世界から戦国の世界へ入るのに違和感はない。

主郭の2段したの曲輪   歩測できないので視覚で

右奥に主郭   その下の曲輪への虎口
畑に利用されている

この石はまさか・・・やっぱり


縄張り図⑥の堀切  2011年3月撮影

ナクトンガンを写せるのは天気次第  前方左に金海空港   2011年3月撮影


   廃城の後、お寺なり畑なり墓地として、地元のお百姓さんが城の形を壊すことなく使ってくれたおかげで曲輪なり竪堀なり石垣がそのまま残った、と私は思う。その他はトンネ城にしろプサン城にしろプサン支城にしろ、公園として石垣の一部は残ったとしても城の形は失われてしまった。プサンのお百姓さん、ありがとう、と声を大にして叫びたい。

   この日は今回の韓国滞在最後の日で、この後すぐプサンの金海空港から成田に向かうことになっているので薬師如来に軽くご挨拶して、急ぎ足で回った。   

   

   

2012年11月15日木曜日

倭城マラソン(10) トンサムドン(東三洞)城

2012年10月7日(書き忘れのため) 東三洞(トンサムドン)も忘れないでくれ


   ウンチョン(熊川)からすぐ市外バスでプサンのササン・バスターミナルに戻った。韓国への旅も終わりに近づき、明日成田への直行便に乗るだけだ。

   しかし、訪ねた倭城で実は一ヶ所書き忘れていたのがある。プサンに到着した日(10月7日)に時計を戻し、振り返りながらプサン市内のトンサムドン(東三洞)倭城について書いておきたい。

南から見た倭城の小山

対岸がプサン港

   プサンに到着して直ちに東三洞貝塚展示館に向かい、縄文土器を見たあと、実は歩いてそのまま近くにあるトンサムドン倭城に行った。プサン港の沖にデーンと入口を塞ぐような形でチョルヨンド(絶影島)という大きな島がある。その島の東海岸の小山の上にある。

この石積みの中が曲輪状の広場

積み替えたか
内部は農作業用の小屋が並ぶ

   













   

   

   毛利輝元が築城した椎木嶋城がここだ、と見られている。また、プサン港を一望のもとに収め、港への船の出入りを見張るには絶好のポジションであることはすぐわかるが、倭城らしい遺構は残念ながら見つけられなかった。

   小山の頂上には曲輪らしい広がりがあり、周りを石垣が取り巻いているが、どう見ても新しく積んだものにしか見えない。倭城があった、としてもほとんど原形をとどめないくらいに畑になってしまったのかもしれない。

曲輪といわれれば・・・

そう見えてくる

   私が行った日は日曜だったので、どうやら他からやってきて週末の農作業に精を出す人が多く、「倭城?聞いてないね。」と相手にもされない。斜面に畑が段々になって広がっていて、段差には石垣が見えるが、特に倭城らしくもない。

週末に農作業に来る人のためのトイレ   喫茶店かと思った

様になっていますね

   プサン港を見下ろす広大な景色に出会えただけで満足だった。畑のかたすみで偶然野面積みに出くわすことはなかったけど、倭城があってもおかしくない場所だ。あったはずだ。あったと思いたい。

2012年11月14日水曜日

倭城マラソン(9) ウンチョン(熊川)城


2012年10月13日(土) 熊川(ウンチョン)城は信仰の接点

   ウンチョン倭城は大きい。標高184メートルの山頂に設けた主郭部を中心にふもとには船留まりと屋敷を構え、その間を巨大な石垣がつないでいる。山全体が城と言ってもいい。

   ウンチョン倭城は文禄の役で出兵(1592年4月)した秀吉軍が一年ほど占領した首都の漢城(今のソウル)を撤収し、長期戦を想定して半島南部の海岸線に沿って倭城を作り始めた時に築城され、兵を最終的に引き上げる慶長3年(1598年)まで使われた。

この山全体が城   前方の橋を右に渡ったところに登り口がある



緑色の部分は埋め立て地でプサン新港となる


城郭談話会の堀口健弐さん作成の縄張り図を使わせてもらった。
倭城研究シンポジウムⅡ 倭城から複写

   加藤清正と成果を競いながら、一番隊を率いてプサン、漢城(現ソウル)を落としてピョンヤンまで軍を進めた小西行長が在城した。

   この山に自分で城を作るまではウンチョン邑城を駐屯地にした、と伝えられるが邑城からかなり離れているので、同時に使用するには不便だったに違いない。
   山頂の城郭はさほど広くはないが、山麓の平地は広大で、現在確認されている以上に曲輪があったと思われる。

   山頂の曲輪群は遺跡として保護されていて、案内板もあり近くにトイレと休憩場所もあるが、その他の遺構は私有地の中であったり雑木雑草でアクセスが難しかったり、とにかく広いので城郭全体を一度に見るのは容易ではない。

   特に私のようにバスや電車しか使わない、と決めて歩く人には近寄りがたい存在だ。09年に初めて行った時はタクシーでふもとに乗りつけたは良いが、帰りはいちばん近いバス停まで40分歩いてへとへとになり、正直これが最後、と思った。

   しかし。

   気になることがあったのと、単純にもっと見てみたくなったので再び来てしまった。「名物」登り石垣を伝って海辺まで降りてみたい・・・できるかな?

   気になっていたのは09年に来た時に主郭に立っていた一枚の案内版だ。「聖地」以外はハングルなので日本に帰ってから辞書をひきひき文章を組み立てると「ここは韓国で初めてカソリック教のミサが執り行われた聖地です。」という文章に続いて「竹を伐採したので危険。歩く時は注意。」と親切に知らせてくれている。

09年撮影 今回は見なかった


   竹を伐採、ということは草を刈ったりして遺構の維持管理にも関与している、ということだろうか?教会に尋ねよう、と思った。

   小西行長はカソリック教徒だった。娘が嫁いだ対馬の宋義智(よしとし)をはじめ周りにもカソリック教徒が多かった。そのためスペインから来た宣教師セスペデスをウンチョンに派遣してもらったことはルイス・フロイスの「日本史」に詳しい。セスペデスは細川ガラシヤ夫人を信仰に導いた宣教師だ。

   行長は信仰を続けるために戦場に宣教師を呼び、山麓ではなくて山頂の曲輪に住まわせ、そこで宗教儀式を行うように依頼している。「日本史」には、セスペデスが馬に乗って山頂に向かうのがつらい、という内容の手紙が紹介されているが、確かに急な坂道はシンドイ。

   ウンチョン倭城は戦を目的にした純然たる砦として機能しただけでなく、小西行長を始めとする武将たちの信仰を維持、育成した教会でもあったのだ。さらに、その事実を後に韓国のカソリック信者が大切に受け止めて後世に伝えている。
   韓国にとってセスペデスは朝鮮半島に初めて足を踏み入れた西洋人でもある。

   

   現在簡単に足を踏み入れることができるのは、山麓部は別にして、青色の線で記したルートが中心になるようだ。他の曲輪は草が伸び放題、雑木や竹がはびこって残念ながら一人で入る込む勇気がなかった。登り石垣も周りの木々が邪魔して展望も悪く、この季節には歩けそうにない。もともと角ばった石が裸のまま露出していて、とても歩きにくいだけでなく危険でもある。

北側の登り石垣 09年撮影

09年撮影

09年撮影

   城域に入ってまず目を見張るのが長く伸びた石垣。斜面に沿って登る様はまるで龍が動くようだ。倭城によく見られる登り石垣だが、ここでは特に規模が大きいだけでなく、主郭部から三方に向かって伸びている。

   虎口の石垣は高さ2メートル半ぐらい。そのほかの箇所では、大ざっぱに測って1メートル50ぐらいかそれ以下だった。

   北向きの虎口から入って主郭を目指して歩きながら、常に全面から狙われる複雑な折れに感心する。

虎口が連続する







   












天守台




   主郭の隅に天守台か櫓台と思えるひときわ高い石造りの高台がある。






天守台への石段   09年撮影
天守台西側の側面 下の曲輪はまるでジャングル


   主郭からの高さはおよそ2メートルだが、西と南側は5メートルはありそうな高さだ。南側の海上から見ると登り石垣の先に、さらに高石垣上に天守があったとするならかなり威圧的に見えたに違いない。 

   一度海上から見上げて見たいものだ。

天守台から南へ下る登り石垣
天守台と登り石垣の接続部
セスペデスはウンチョン倭城について;

   『この熊浦城は難攻不落を誇り、短期間にじつに驚嘆すべき工事が施されています。巨大な城壁、塔、砦が見事に構築され、城の麓に、すべての高級の武士、アゴスティーニュとその幕僚、ならびに連合軍の兵士らが陣取っています。彼らは皆、よく建てられた広い家屋に住んでおり、武将の家屋は石垣で囲まれております。』
                                (中公新書「秀吉と文禄の役」) 

   熊浦(コモカイ)とはウンチョンの当時の日本での呼称
   アゴスティーニュは小西行長の洗礼名

   
   実際に見た人による具体的な描写が残る貴重な倭城でもある。


天守台の端から主郭を見る

主郭 天守台下から東側を見る  

   今回は山麓の屋敷跡をどうしても見てみたかった。

   城の北面にあった船溜まりは埋め立てられ、軍船で賑わったであろう海は消えた。住宅地になるそうで、プサン方面への道路の整備が進んでいる。

   プサン新港ができれば、おそかれ早かれここはプサン経済圏に組み込まれてしまうだろう。のどかな「ウンチョン村」にもいずれ、プサンから電車が伸びる日がくるかもしれない。

安宅船、関船が多数出入りした海は今・・・


   そのかつての海沿いの道を行くとやがて石垣が見えてきた。高さ2メートルくらいの石垣に囲まれているのは、ちょうど稲田一枚ほどの大きさの畑で、男性がひとり農作業をしている。

石垣の保存状態はいいですね


隣の果樹園を覗くと・・・崩れてます

かなり広い曲輪です
















    

   ニンニクを栽培しているそうだ。倭城についてはよく知っているが、「わざわざ日本から来たのか?」と不審な顔をされた。
   でも快く記念の写真を撮らせてくれた。

   


   ここも農業をする人が減っているようで、周りで作業をしている人の多くは、チネやヨンウォンから週末だけ汗を流しにきているように見えた。でもこのおじさんはプロらしい。


ふもとには無造作に崩れた石垣が残っている
地元のカソリック教会を訪ねると、「聖地」はほんとうだった。現地でお祈りをすることもある、と信者さんたちが教えてくれた。もう少し詳しく知りたい、と神父さんあてにメールを出して今返事を待っている。
   


   

2012年11月12日月曜日

記憶のかなたのチェポ(齋浦)

2012年10月13日(土)

   ウンチョンに行こう、と306番のバスを待つがなかなか来ない。1時間待った。ようやく乗ったバスだが15分も経たないうちに、ウンチョンの手前、チェドクトン(齋徳洞)で下車。

   ここは15,16世紀に日本との交易のために朝鮮が日本に開放した3つの港のひとつ、チェポで、当時300戸1700人、寺の数11を数える、朝鮮でいちばん大きい日本人街があった。プサンをはるかに凌ぐ規模だった、という。しかしチェポは日本ではすっかり忘れられてしまった。

   どんな町か、どんな港か。それだけの単純な好奇心でバスを降りた。

   今は・・・何もない。

左の山麓が現在の町、その前のうすい緑色の部分が埋め立てられた海
町の背後の茶色は新しく埋め立てられた海  (北から南を見る)
手前から新旧の埋め立て地
日本の居住地があったは家の密集したあたりか















   





   湾の北側に数十個の家屋が集まっているだけ。湾は思った以上に小さく、しかもほとんど埋め立てられている。
   さらに今はその先も埋め立てられていて、ずっと沖の島まですっかり陸続きになっている。

16世紀チェポ鎮城と日本人居住区の模型   チネ博物館
現在の写真とは方向が逆 (南から北を描写)
チェポ鎮城

日本人居住区



   













当時を偲べるものがひとつだけある。朝鮮の鎮城だ。バス停の近くの釣り道具屋に入って地元の観光案内にも載っている「チェポ鎮城址」への行き方を聞いた。


  


   「何ですか、それ?」 店にいた3人の男女全員が不審な顔を向けた。「ウェブで調べてみます。」と女性の従業員がコンピューターの前でボランティアしてくれた。

   「チェポの北方歩いて5分、って・・・ある?」

   男性の一人が外に出て辺りを見回して言った。「ああ、あれじゃないか?」

   地元の住民3人もいて誰も知らない「観光名所」とは何なのだろう?近くに行っても案内版があるでもなし、矢印もない。石垣が見えているが、近づけない。かなり遠回りしてようやくたどり着いたのが、この看板。ホテルが数件集まった場所に一ヶ所あった。


 
その一角は公園になっている。門と城壁の一部が残っているだけだが。当時を想像させるには十分な風情。


城壁と門



鎮城址から見たチェポ



   ここはチェポの港を見下ろす高台で日本人居留地を見張る、というより閉じ込める意図の方を強く感じた。喜んで開放した港ではないだろう。できればいなくなって欲しい居留民だったはずだ。ウンチョン邑城の案内版にあった説明「近くのチェポの日本人を統制するため」という言い方がなまなましく思い出された。