2012年11月6日火曜日

倭城マラソン(6) アンコルポ)(安骨浦)城

2012年10月11日(木)  水軍基地 安骨浦(アンコルポ)城 


   プサンのササン・バスターミナルからヨンウォン(龍院)行バスで一時間弱。1900ウォン(およそ150円)。終点のヨンウォンはチネ(鎮海)に向かう途中の大きな街で街中に停留所がたくさんある。アンコルポ(安骨浦)に一番近い停留所はどこか、ターミナルで調べて行ったのに、どうやら情報が間違っていたらしく、アンコルポ(安骨浦)の海岸まで45分は歩かされた。

   


   

   
   アンコルポにも鎮城が設けられており、秀吉軍は鎮城の一部を取り込んだ、と見られる。 
 
   


ハングルで「アンコルポ鎮城通り」



畑を石垣が取り囲むだけでなく、周辺には石垣が多く見受けられるが、果たして当時の石垣か、後に手を加えたものか、見ただけで判別することは私には残念ながらできない。


しかし「鎮城通り」から倭城部分を見上げた感じでは、在来の城を居住区として利用しただろうことは容易に察しがつく。ゆるい勾配で石垣が上に登っている。
しかし、倭城がそこにあることはわかるが、登る道がわからない。09年に来た時は反対側から墓場を抜けて行ったが、こちらからは遠い。

   海岸べりの表通りに面して椅子を並べ、70歳代と思える男女数人が話し込んでいる。「倭城がある、と聞いたのですが・・・」と尋ねると、全員が口を揃えて「すぐそこ。この道に沿ってまっすぐ登るといい。」


   狭い村の中の道を行くと、確かにすぐ見つかった。案内もある②。

城郭談話会の堀口健弐さん作成の縄張り図を使わせてもらった。
倭城研究シンポジウムⅡ 倭城から複写、加筆

アンコルポ倭城は独立した曲輪が4つ連なっている珍しい形だ。そのうちのⅣはこれまで見てきた朝鮮式の鎮城を利用したものと見られている。特にふもとは広い居住区になっていて、現在もここから①にかけて家が密集している。Ⅳの傾斜に沿った石垣は城の境界として使用されたか。

Ⅲの曲輪 今は墓地

Ⅲの虎口

興味を惹かれるのはⅠ、Ⅱ、Ⅲの三つの曲輪で、各自が独立しているように並んでいて、それぞれに虎口が前後に設けられている。櫓台と見られるコーナーは見られるが天守台にしては小さい。Ⅱがいちばん広いが、いずれもスタジオ・タイプといわれるアパートに似ている。広い部屋がひとつ、デーンとあるだけなのだ。

Ⅱの虎口

崩落が激しいⅡの虎口の内側

Ⅲの下はプサン新港に


アンコルポ城は文禄年間に築城され、慶長の役の最後まで存続した。九鬼嘉隆、脇坂安治、加藤嘉明の3人の水将が交代で城を守った、と言われる。そのことと独立した3つの曲輪が関係あるのかどうか、興味あるところだ。


Ⅱの櫓台の下に広がる曲輪

Ⅱの下に見えるアンコルポの海

緑色は埋め立てられた海、赤い丸は倭城の位置を示す
カドクトを横切る青い太線は高速道路(橋とトンネル)
周りを見回すとウンチョン倭城、カドクト倭城、コジェドのヨンドゥンポ(永登浦)倭城を始めとする秀吉軍の城が集中していて、朝鮮水軍との合戦も近くの海域で多発している。3水将が在城したからにはアンコルポ城が水軍の基地的役割を果たしたのは間違いないだろう。

まわりの海は大半が埋め立てられて、プサン新港の建設が進んでいる。

   






   新しく③に駐車場が出来て、「観光案内所」の看板だけが立っていた。どうやらこの倭城も公園化が進んでいるようだ。廃城以来の「手つかず」感が失われないことを祈ってやまない。

   この新しい駐車場の脇の別荘から人が出てきたので、チャンウォンまでの道を聞いたら奥さんと一緒に車で送ってくれた。「あしたカドクトに行きたいのだが…。」と尋ねると「バスがあるよ。」と言ってその停留所でおろしてくれた。 
 

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