2012年11月1日木曜日

倭城マラソン(4) トンネ(東莱)城

2012年10月10日(水)  トンネ(東莱)倭城は消えたのか



   クァンジュからプサンに着いてまだ午後の時間がたっぷりある。明日行く予定だったトンネ(東莱)倭城跡に向かうことにした。
   バスターミナルに隣接した地下鉄2号線ササン駅からソミョン(西面)へ、1号線に乗り換えてトンネ駅へ、さらに新しい4号線に乗り換えてチュンニョルサ(忠烈祠)駅で降りれば目の前。プサン港の北、現在の住所はプサン市トンネ区。

地下鉄トンネ駅から見た倭城址
ちょっとズームイン 真ん中の山です

  
   4号線ができてとても便利になった。それまではトンネ駅からタクシーか徒歩で行くしかなかった。かなりの距離だ。トンネ駅での乗り換えはかなり歩かされた気がしたが、初めてだったせいかもしれない。

   






   

   1592年4月13日、小西行長率いる第一軍がプサンに上陸してまず攻撃したのがプサン鎮城。その翌日攻略したのがトンネ城だ。鎮城というのは港を守る城のことで、当時この地方の中心はプサンではなく、トンネだった。トンネは朝鮮王朝時代を通じてずっとこの地方の行政の中心地だった。

   




   そのため秀吉軍はプサン鎮城の跡地にプサン倭城を築城するとともに、トンネにも倭城を置いた。港と同時に行政の中心地を抑える、という意思表示だったのだろうか。

背後の小山から忠烈祠にかけて倭城があった
現在ここには宋象賢の勇気ある死をたたえる「忠烈祠」が建てられている。宋象賢は最後まで日本軍に抗戦して命を落としたトンネ府庁の最高責任者で、死を厭わずに責任を全うしたいさぎよさに日本軍からも賞賛の声が上がったほどだった。

   倭城はこの忠烈祠から背後の小山にかけて築城されたが、後にトンネ邑城が再築されたり宅地化されたり、今は山全体が公園になっていて当時を偲ぶ遺構は消滅した、と言われている。

   それでも何か残っていないだろうか? 消滅したのならせめて地理的位置なり、見てみたい。ところが背後の山は10月半ばから5月まで立ち入りが禁止されて冬期は歩き回ることができない。

   乾燥する季節なので山林火災を防ぐためでは、と見られている。山城めぐりにはちょっと早い10月に韓国に行ったのは「立ち入り禁止」になる前を狙ったからにほかならない。

山頂部はやはり主郭だったか
現在は東将台
倭城は一番右の山の右側
「新」トンネ邑城模型  トンネ邑城歴史館(2011・11撮影)
民家が密集しているところが古い邑城部分
朝鮮の城は街全体を囲っていた
山頂にはトンネ邑城の一部、東将台があり、近くには邑城の石垣が修復されている。しかしこの邑城は宋象賢がいた頃の城ではなく、秀吉軍が引き上げたあと作り直したもので、面積も拡大され、石垣の一部分が倭城と重なっているようだ。
   宋象賢がいた頃の邑城は現在のトンネ駅の東側の比較的狭い地域と見られる。この点がまぎらわしく、誤解されやすい。

修復した「新」トンネ邑城






   邑城の一部に倭城の石垣が使用されたのではないか、と思ったが確証はない。


   「新」邑城の石垣を眺めながら坂を下ると、曲輪かな、と思われる削平地が多いのが気になった。そのうちに石垣が露出している箇所がいくつか見られた。山頂に主郭があったとするなら、このあたりに曲輪が連なっていてもおかしくはない。


   専門的な調査をして欲しいところだが、それまでは「石垣見つけた!」と言わせてもらおう。




    じっと眺めているとますます城に見えてくるから不思議だ。

                               今は市民の憩いの場となっている。

囲碁に興じるおじさん、おじいさん

3 件のコメント:

  1. 東将台の隣に東莱区內にあった軍官庁を移転しました。 そこが二の丸の席だと推定されると聞いたことがあります。 自分で行ってみましたが、東莱邑城の北端に帯曲輪が二つはっきり見えてきました。

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  2. 東将台の隣に東莱区內にあった軍官庁を移転しました。 そこが二の丸の席だと推定されると聞いたことがあります。 自分で行ってみましたが、東莱邑城の北端に帯曲輪が二つはっきり見えてきました。

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  3. 次に行った時に探します。

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