2012年10月11日(木) 手つかずの機張(キジャン)倭城
バスより私は電車が好きだ。韓国ではどうしても便利さに流されてバスに乗ってしまうが、ムグンファ号とかセマウル号のゴトン、と動き出す瞬間がなんとも言えない。
朝8時40分プジョン(釜田)駅発のセマウル号でキジャンに向かった。指定席4800ウォン(およそ380円)。乗客は私ひとり。新幹線は混んでいるのに、韓国人はスローな電車が嫌いなのでしょうか。
ヘウンデ(海雲台)で若いカップル乗車。9時13分キジャン駅着。
駅前の道をまっすぐ市場に向かって3分ほど歩いて右へ曲がればバス停。6番のバスが1時間に2、3本の割でチュクソンニ(竹城里)と市場を往復していて、チュクソンニ小学校前で降りると真ん前の山に石垣が見える。
今回は主郭部だけでなく、周辺を歩いて城郭全体を見たいと思っていたので、海が見えたところで早めにバスを降りた。
キジャン倭城はプサンから海岸沿いに北上してソセンポ(西生浦)倭城に至る幹線ルート上に位置すると同時に、港には名護屋から直接船が入る、という理想的な場所に立地している。
文禄の役が始まってまもなく黒田長政が築城し、慶長の役が終わるまで長く存続した城でもある。
朝鮮半島の港には港を守るために鎮城が置かれた。港を守る、と言っても攻めて来るのは倭寇しかいないわけで、文禄・慶長の役は海賊がサムライになっただけだ。対馬藩がプサンに代表事務所を置いて公式の商取引をするようになるまで、高麗、朝鮮倭寇にずいぶん手を焼いた、という。おびただしい数の鎮城がそれを物語っている。
キジャンにも朝鮮式の鎮城があり、黒田長政はそれを城郭の一部に取り込みながら新たに城を作ったようだ。
城郭談話会の堀口健弐さん作成の縄張り図を使わせてもらった。 倭城研究シンポジウムⅡ 倭城から複製、加筆 |
今回は朝鮮式と見られる部分から見て回った。
縄張り図の赤い線より北の部分が朝鮮式と見られる範囲だ。
平地部分では(1)の石垣が残っている他、完全に畑か荒地になっていて曲輪らしきものは確認できなかった。
石垣は朝鮮式のように私には見えるが、自信はない。
(2)井戸は古そうだが、いつからあるのかは不明 |
(3) |
急な斜面に曲輪状の削平地があり、段状に上に登ってゆくのが見える。道らしい道はない。農作業中のおばあさんに登る道がないか尋ねると「道?ないよ。城?石垣?見たことないね」と呆れ顔でいう。その間に私の目は枯れ草の間にかすかに人の通った痕跡を目ざとく見つけてよじ登った。
(4) |
石垣は直立、傾斜はない |
石垣の後ろ側には曲輪状の広がりはあるが細長く、距離感が日本の城とは違うようだ。
石垣と反対側の右側はがけ。
(5)谷を隔てた倭城部分を見る |
石垣がわずかに見える |
石垣の前の曲輪から見える現在の漁港 |
外郭部から倭城部分に向かう。
左側が土塁状 |
前回は登り石垣の跡か、と思ったが登り土塁のようだ。外側に竪堀が走っている。土塁の内側に沿って階段を置いたのではないだろうか。(6)
高い石垣に圧倒されるが、作業して人がいるところを見ると除草は始まったばかりのようだ。
曲輪はまだ高い雑草に覆われている。来るのがちょっと早すぎたようだ。
倭城と朝鮮式と見られる外郭部分の使い分けは明らかではない。現在は倭城部分だけが史跡として保護されていて、外郭部はすべて個人の所有になっているようだ。石垣の保存状況は極めて良い。上の写真でもわかるように破城にともなう石垣の崩れも激しくない。
主郭への虎口 |
廃城から手つかずのまま現在に至ったような錯覚さえ覚える。今回で2回目になるが、前回も雑草に阻まれて主郭から北の部分に足を踏み入れることはできなかった。主郭のすぐしたの曲輪は歩けたが、その奥は入れなかった。
現在歩き回れるのは真ん中の主郭だけ 主郭下の虎口から右へ下る土塁が現在階段のあるところ。 |
草深い主郭と右に虎口 |
在来の城を利用した広大な城郭の全体が見られたのは嬉しいが、主郭以外の曲輪に入るどころか、見ることもできなかったのは残念だ。今度は草刈がまを持参して2月か3月に来よう。
安宅船が多数出入りしたであろう港は今は 静かな漁港であちこちにイカが干してあった |
0 件のコメント:
コメントを投稿