2012年11月12日月曜日

記憶のかなたのチェポ(齋浦)

2012年10月13日(土)

   ウンチョンに行こう、と306番のバスを待つがなかなか来ない。1時間待った。ようやく乗ったバスだが15分も経たないうちに、ウンチョンの手前、チェドクトン(齋徳洞)で下車。

   ここは15,16世紀に日本との交易のために朝鮮が日本に開放した3つの港のひとつ、チェポで、当時300戸1700人、寺の数11を数える、朝鮮でいちばん大きい日本人街があった。プサンをはるかに凌ぐ規模だった、という。しかしチェポは日本ではすっかり忘れられてしまった。

   どんな町か、どんな港か。それだけの単純な好奇心でバスを降りた。

   今は・・・何もない。

左の山麓が現在の町、その前のうすい緑色の部分が埋め立てられた海
町の背後の茶色は新しく埋め立てられた海  (北から南を見る)
手前から新旧の埋め立て地
日本の居住地があったは家の密集したあたりか















   





   湾の北側に数十個の家屋が集まっているだけ。湾は思った以上に小さく、しかもほとんど埋め立てられている。
   さらに今はその先も埋め立てられていて、ずっと沖の島まですっかり陸続きになっている。

16世紀チェポ鎮城と日本人居住区の模型   チネ博物館
現在の写真とは方向が逆 (南から北を描写)
チェポ鎮城

日本人居住区



   













当時を偲べるものがひとつだけある。朝鮮の鎮城だ。バス停の近くの釣り道具屋に入って地元の観光案内にも載っている「チェポ鎮城址」への行き方を聞いた。


  


   「何ですか、それ?」 店にいた3人の男女全員が不審な顔を向けた。「ウェブで調べてみます。」と女性の従業員がコンピューターの前でボランティアしてくれた。

   「チェポの北方歩いて5分、って・・・ある?」

   男性の一人が外に出て辺りを見回して言った。「ああ、あれじゃないか?」

   地元の住民3人もいて誰も知らない「観光名所」とは何なのだろう?近くに行っても案内版があるでもなし、矢印もない。石垣が見えているが、近づけない。かなり遠回りしてようやくたどり着いたのが、この看板。ホテルが数件集まった場所に一ヶ所あった。


 
その一角は公園になっている。門と城壁の一部が残っているだけだが。当時を想像させるには十分な風情。


城壁と門



鎮城址から見たチェポ



   ここはチェポの港を見下ろす高台で日本人居留地を見張る、というより閉じ込める意図の方を強く感じた。喜んで開放した港ではないだろう。できればいなくなって欲しい居留民だったはずだ。ウンチョン邑城の案内版にあった説明「近くのチェポの日本人を統制するため」という言い方がなまなましく思い出された。

   


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