文禄の役(1592~96)で朝鮮半島に出兵した秀吉軍は、始めの頃は朝鮮軍の邑城(ゆうじょう、城壁で囲った中に町ごと一般人を含めて住んだ、城塞都市)を使用した、と見られている。また日本式の城を築いた後も続けて使用する場合もあったようだ。
ウンチョン(熊川)邑城もその一つで、石垣の一部が残っていたが、城門と城壁が最近復元された。一時的とはいえ、小西行長軍がどんなところに駐屯していたのか興味がある。途中下車して見に行った。
ヨンウォン(龍園)からバスに乗って、10分ぐらいだろうか。すぐとなり。
日本の「城」とは違って、そっくり街ごと入っていた、ということは「街を占領した」ということになるのだろうか?敵の城を落として、そこに入る、とは違うような気がする。それとも単純に城に「間借り」した?
威圧的で巨大な城壁にちょっと驚きもし、実体にそぐわない気がしないでもない。
しかし調査と資料によって正確に復元した、という。でもキレイすぎる。写真で見るかつての遺構は石の形と石積みの荒々しさにパワーと風格があったように思う。私たちが考えるほど韓国人は「当時の姿、形」にこだわらないのかもしれない。
風のさわやかな昼下がり。楼閣に登っておやつの時間です。
案内版の説明 |
ウンチョン邑城の模型 チネ博物館 |
倭寇とか、朝鮮半島にあった日本人居住地を通しての取引は、日本史の時間に詳しく教わった記憶がなかったので、新鮮な驚きだった。「三浦(サンポ)倭乱(1510年)」とは齋浦、釜山浦、塩浦(ウルサン)にあった日本人居住地で起きた反乱のこと。
前方の左側の山頂にウんチョン倭城 右側の山の右裾にチェポがある |
ここからウンチョン倭城までは歩いて40分はかかる。
倭城歩きでは一番の難所。小さな街でタクシーが捕まらないのがさらに困る。
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