2016年6月30日木曜日

韓半島の城跡(5)釜山倭城、子城台倭城

平成28年3月15日(火)つづき

午前中は亀浦(クッポ)倭城をぶらつき、午後は釜山倭城と支城の子城台(チャソンデ)倭城に挑んだ。

『挑む』といったのは軽い気持ちではなく、登山に等しいくらい急な坂を登るからです。並みの山城ではなく、往時の縄張りと石垣群が残っていたらさぞやプサン名物として観光客の人気を得ていただろうと思います。

城郭に関心を持つものにとって残念ながら、プサンが第二次世界大戦の後、特に『漢江の奇跡』と言われた韓国の経済発展をけん引するブルドーザー的働きをする中で、「日本の城」は周りの住宅に無秩序に侵食されて、いつの間にか姿を変え、面影を失ってしまいました。

観光客として釜山を訪れる人が多くいても、釜山倭城の遺構を目にすることはまずないでしょう。プサンの市民も大半がその存在を知りません。観光案内のパンフにも書いてありません。
チャソンデ倭城から見る東区図書館  プサン倭城はこの尾根上

曲がりくねった急な坂をバスが登って行きます。城跡は現在公園になっていてすぐそばまで住宅地が延びています。そのすぐ下にはかなり大きな小学校、その横に、釜山広域市東区の図書館が建っています。ガラス張りの図書館は山の下から見ると山上にそびえるように見え、釜山倭城はひょっとしてこんな形で下界に睨みをきかせていたのではなかろうか、と想像します。

タクシーで一気に登れば簡単、簡単、と暗記した韓国語で頼んだら、とても嫌な顔をされて乗車拒否にあったことがあり、タクシーは苦手です。それ以来、どんなに急峻でも坂を歩いて登ることにしています。「山城はやっぱり歩いて登らないとだめですよ。」というのが表向きの理由ですが、本当は再び乗車拒否されるのが嫌だからです。

当時の2郭に相当する場所

当時の主郭

石垣はしっかりコンクリで固められている。上は主郭

城跡の公園は『甑山(チュンサン)体育公園』という名で呼ばれ、天守のあった主郭はかなり広い運動場になっています。周りを一周する帯曲輪には運動具がしつらえてあって、この日は年配の男性がひとり、黙々と体力づくりに精を出していました。散歩をする人の動きは絶えず、まさに市民憩いの公園、と呼ぶにふさわしい場所になっていて、日本の城を思い浮かべる人はいないでしょう。しかし案内坂にははっきりと由来が書いてあります。せっかくの石垣がコンクリートで固められて風情も何もあったものではありませんが、じっと眺めていると往時の面影が浮かんでくるから不思議です。

高い石垣は長く延びていて印象的。





石垣はかなり高く、3メートル~5メートルぐらいでしょうか。全体的には城跡というには大きく崩れていますが、面影は残っています。笹竹があちこちにあることで城跡であることが分かります。現地の人にも『矢』を作るために植えた、と言い伝えられているようです。『矢竹』なのか、ただの笹竹なのか、私には判別がつきません。

韓国に残る倭城を訪ねて歩くとき、この笹竹が「城が近い!」ことを教えてくれます。それと倭城が近い家屋にはなぜか石積みが多用されていて、家を建てる時に近くに転がっている石を用立てたのではないか、と想像しています。実はこの日、道に迷っていつもと違う方向から城域に入ったのですが、民家のあちこちに石積みが多くなるのを見て、「城は近い」と安心しました。家の基礎部分であったり、玄関の階段であったり、あちこちに利用されています。
上部はかなり積み直したような感じ。下部のコンクリートが気になります。

甑山の「甑(そう)」というのは釜のような形をした料理用の蒸し器の名前だそうで、形が似ているので甑山と呼ばれるようになり、やがて同じ意味の「釜」を使うようになり、「釜山」へと変わっていったということです。いわばプサンの名称のもとになった山なのです。

この山上の尾根上に日本式の城を建てたのは毛利秀元宇喜多秀家宋義智などの武将が在城し、慶長の役では小早川秀秋も在城しています。釜山倭城は豊臣秀吉による明征服の野望を果たすべく、肥前名護屋城に対する現地総指令部の役を担いながら、足掛け7年朝鮮国とそこに援軍を送り込んでバックアップするとの対峙を続けたのです。

そのため何かと釜山倭城に集まることも多く、海を渡った日本の武将のほとんどが足を記した、と想像しても大きく間違えることはないのではないでしょうか。
釜山倭城から見下ろした子城台倭城   当時は南(右)側がすぐ海だった。

現在のプサン港  これは貿易港で漁港は右手を回り込んだところ。
急な斜面の下、海際には支城をおき、港と海を使って名護屋城との連絡に当たるほか、朝鮮半島の主として南側沿岸の制海権を確保しようとにらみを利かせました。

急こう配の坂を降りて支城に向かいましょう。
秀吉軍が撤退した後、ここに移った朝鮮軍の釜山鎮城(復元)


  標高125メートルの山を下りて地下鉄の駅を過ぎ、大通りを渡った先にあって、今は子城台(チャソンデ)公園になっています。周りよりひときわ高い、標高34メートルの小山の上です。秀吉軍撤退の後、朝鮮軍が倭城跡を「釜山鎮城」として利用していました。現在主郭後に建てられている朝鮮式の建物はその時代(朝鮮後期)を記念するものです。

すっかり緑豊かな市民公園になっていますが、公園を取り巻く散歩道を歩きながら上方を見上げると、主郭を取り巻く石垣がかなり原形をとどめているのがよくわかります。しかし小山の周辺に延びていたと思われる曲輪の痕跡は見られず、今は個人の住宅と商店が広がっています。


右側に下る登り石垣  都市化とともに先っちょは消えた?

また文禄、慶長の頃、城の南側は釜山浦と呼ばれる海でした。明治以降埋め立てが進んだようです。徳川の世になって朝鮮国が幕府に派遣した「通信使」が船出したのもここで、通信使を顕彰する記念館が城跡の一角に最近オープンしています。

豊臣から徳川への大きなうねりを韓半島のどこよりも実感した場所ではないでしょうか。7年に渡って九州からひっきりなしに入ってくる軍船を迎えたのもこの浦(湾)であり、大軍が引き上げて後250年にわたり徳川家に将軍交代があるたびに使節を送り続けたのもこの浦でした。





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