2016年8月11日木曜日

韓半島の城跡(8)東莱邑城(プサン)

平成28年3月17日(木)

豊臣秀吉が明を征服する目的で20万の兵を朝鮮半島に派遣したしたのは文禄元年(天正20年12月に改元、1592年)4月13日。歴史書には「小西行長率いる第1軍がプサン鎮城を落とし、翌日トンネ城を落とした。」と書いてある。上陸したその日にプサンが降伏、翌日トンネを攻撃、と読んでしまいます。しかしその当時プサンと言う集落は存在しなかったはずです。あったのは東莱(とうらい、トンネ)という集落で行政の中心もトンネであった。現在、トンネは釜山市の区のひとつ。

ちなみに慶尚南道の当時の中心は晋州(チンジュ)であって、秀吉がチンジュ攻撃に強い意欲を見せたのも、おそらくチンジュが慶尚南道を治める行政府があったからだと思われます。
北側の邑城から南方向に見るプサン市トンネ区。

ではプサンというのは・・・港でした。それまで長い間対馬の宗家が管理する日本人居留地があったところで、当時の日本では対馬以外、ほとんどその名前は知られていなかったのではないでしょうか。釜山浦という湾に面して釜山鎮城が置かれ、小西軍がまず戦って落としたのはこの鎮城でした。従がって人間の住む集落としては翌日陥落させた東莱邑城が初めてだったはずです。
トンネ邑城歴史館で展示中の18世紀のトンネ。手前が北。上の写真とほぼ同じアングル。

矢印が復元された城壁。街をぐるっと取り囲んでいるのが分かります。青色で囲んだところが倭城祉。     
後方の尾根の括れた個所に「北門」、尾根を右方向に登った上に見張り台。 東から西方向を見ています。

プサンと言う近代都市の存在に慣れた現代の私たちにとって、プサンと聞けば人の住む町、しかもかなり大きな町を思い描きますが、釜山と言う町が出来るのは遙か近代になってからです。

小西軍は釜山鎮城の後、近くの多大浦(タデポ)の港を守備するタデポ鎮城も陥落させています。この辺りで大きな鎮城はこの2つだったようです。現在プサンとタデポ(プサン市の一部)に4月13日の戦闘で犠牲になった守備兵を祀る慰霊碑が建っています。

小西軍が翌4月14日に襲撃して陥落させた「東莱」こそが行政と軍と住民が混在する『集落』でした。この辺りの中心は長い間トンネでした。だからこそトンネをにらんで、秀吉軍は釜山倭城とともに、すぐ近くのここにも倭城を築いた、と私は想像しています。
「北門」から西方をながめる。右側が城外。

残念ながらトンネに築かれた倭城の遺跡はほとんど残っていません。トンネ邑城の復元された石垣は見ることが出来ます。しかしこれも小西行長が攻撃した文禄元年(天正20年)当時に存在したトンネ邑城ではありません。100年後の18世紀になってようやく、秀吉軍に破壊された邑城を一回り大きく作り直したものを、最近になって復元したものです。16世紀のトンネ邑城は小粒でのどかな集落だったと思われます。
城壁の内側。近所の幼稚園が遠足に来ていました。


北面を守る「北門」。日本なら虎口、でしょうか?


この辺りの土塁、石垣は原形をいくらかとどめていたのでしょうか。

土塁の片側に石を積み上げてあります。

新旧の差がはっきりと分かりますね。

急な尾根を登った上にある見張り台。

釜山が存在する遙か以前から存在していたトンネに、今でも地元の人は特別の愛着を抱いているようです。

トンネには温泉があり、日本統治時代には東京に対するかつての熱海のような存在であったようです。温泉は今も営業しています。地下鉄1号線に「トンネ駅」と「トンネ温泉場駅」があります。トンネ駅前からコミュニティー・バスの6番に乗り、「福泉(ポクチョン)博物館」で下車するとすぐ前に山の稜線を這う城壁が見えています。

2012年10月にトンネ倭城跡を探したことがあります。その時のブログも合わせて読んでいただければ分かりやすいかと思います。http://yorimichi2012.blogspot.jp/2012/11/blog-post.html






4 件のコメント:

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    1. すみません。しばらく注意を怠っておりました。

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  2. ご指摘申し訳ないのですが、青色の円が描かれた部分は矮星ではなく古墳です。 ミスを為されたようです。

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  3. ご指摘ありがとうございます。次の機会に確認してきます。

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