2012年11月10日土曜日

倭城マラソン(8) ミョンドン(明洞)城

2012年10月13日(土) 明洞(ミョンドン)城をさがせ
 

   きょうはウンチョン(熊川)倭城に行く予定だが、まずその支城と見られるミョンドン(明洞)倭城に寄って行きたい。ウンチョンはチャンウォン(昌原)市チネ区にあるので、バスはプサンから乗るより、チネから行くのが便利なことが分かったからだ。便利と言っても一時間に1、2本・・・ないよりは便利、ていど。

   バス停のすぐ隣のマクドナルドで軽い朝食。7時にはスタンバイ。

   ミョンドン行市内バスは303番と306番があるが、違いが分わからない。横に立っているオバさんに尋ねると、その横に座っているオジイさんが突然何か喋り始めた。何を言っているか皆目わからないが、オバさんが「どちらに乗っても同じだって。」と通訳してくれた。どうも年配の人は土地の訛りが強いようで、韓国語初級クラスの私にはハードルが高い。

   再びオジイさんが喋り始めたが、「この人もミョンドンへ行くところだから、一緒に乗れ、って言ってますよ。」とオバさんが教えてくれた。地元の人と一緒に行けるとは心強い。やがて来た303番に乗ってオジイさんの近くに座った。

朝早いからか土曜日のせいか、30分くらいで海辺の小村に着いた。近くにマリーンパークと銘打ったレジャーランドが見える他は、半農半漁の村で、一時間に一本ほんとにバスが来るだろうか、ちょっと心配。

   





   グーグルマップで当たりをつけておいた方向を城址(Ⅳ)を目指して歩く。城を置くに足る高さは目指す小山以外に見当たらないので、まず間違いはないだろう。ひたすら村の細い曲がりくねった小路を高みをめざして歩いた。


城郭談話会の堀口健弐さん作成の縄張り図を使わせてもらった。
倭城研究シンポジウムⅡ 倭城から複製、加筆




   やがて石垣の一部が露出しているのが確認され、その上方に矢竹か篠竹か、細い竹のヤブが見えるので「ミツケタ!」

                 
   山城の本体は後方の小高い山の中腹にあって(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ)、ここはその出先みたいな場所だ。















  



船溜まりに直結した城址(Ⅳ)

城址(Ⅳ)の曲輪から背後の山を見る



右手前方は竹 倭城にもかならず竹が植わっている
海に近く標高もおそらく10数メートルくらい、と思われる。曲輪は狭いけど、周りにも削平地が見える。全面畑だ。



曲輪の周りはぐるりと石垣

下はすぐ海  右手は島

    登ってきた農道との接点には虎口らしい空間も見える。畑の崖は草に覆われているが、めくると全面石垣で保存状態も悪くない。
   良い写真が撮れそうだが、草のない時に改めて来なくてはならない。

この草むらの中が虎口
上の草をどけると・・・

   背後の山の城址(Ⅰ)をめざす。

   すぐ後ろなのに登り口がどうしても見つからない。舗装道路から上にあがる取っ掛りがないので、横の畑に取り付いてめざす方向に登ろうとするが、通路は途中で切れてしまう。誰かの家に迷い込んでしまった。なんと、さっきバスで一緒に来てくれたオジイさんが出てきた。「倭城? ないよ。」 実はもっと長々としゃべったけど、私が理解したのはこれだけ。

   近くで農作業中の中年のご夫婦が見かねて、「ひょっとして日本から?」と言って、通行禁止のロープを持ち上げてくれ、「ここから上がって見たら?」とアドバイスをくれた。

   どうやら週末に農作業をやっているらしく、みんな土日だけ近くの町から畑にやって来る人たちのようだ。だから倭城と言っても知らなくてあたりまえ。土地の人ではないのだ。わたくしを案内してくれたオジイさんもチネから週末毎に畑に来ているのにちがいない。

城址(Ⅰ)への登り

崩れた石垣ではないか・・・近い


   さあ、これからが大変。通路はなんとか墓地までは続いていたが、その上は何もない。何もないところをとにかく上に向かう。

   雑木を切ったあとで、枯れ枝がゴロゴロしていて歩けない。大きな樹も横たわっていて行く手をふさぐ。あっちへ行って止まり、こっちへ行ってみて戻り・・・。
   しかし周りの土地を見ると、しっかりと山城が匂う。稜線の上に、自然か人口か、狭いが平坦な部分が増えてきた。


     ありました。立派な石垣が突然目の前に現れて、ムクワレタ!



   土地は乾燥していて土砂が崩れやすいのに、よくこれまで石垣が崩れなかった、と感心する。あるいは、もう大方崩れてしまったのかもしれない。現存する石垣は虎口のように思える。
   現存する遺構の規模は大きくはないが、広範囲に広がっている。文禄期に松浦鎮信が築城、と伝えられるが詳細はわからない。


   ルイスフロイスが「日本史」で、ウンチョンに小西行長を訪ねたスペインの宣教師セスペデスが「ウンチョンの4キロメートル四方には城砦が多くある」「その一つには娘婿の宗義智がいる。」と書送ったことを伝えている。それがミョンドンかどうかは分からない。
風雪に耐えた石の風格

慶長のころから手つかず?







   ふもとへの見通しは樹木が遮っていて確認できないが、急な斜面の下に先ほど歩いた海際の曲輪が見えるはずだ。この二つの曲輪がいちばん大きい。

   




   この上方にある城址(Ⅱ)と(Ⅲ)の遺構も見たかったが、今回は諦めよう。もう少し歩きやすい頃にあらためて来ることにする。

さて、帰り道。通路を伝って降りてくると・・・やはり、登り口はあった。でも、これでは分かりません。

   道路の拡張整備が必要なことはわかるが、昔からの登り口はわかりやすく残して欲しいですよね。

   ここから登れば少なくとも家庭菜園のジャマはしなくてもよかった。

   
   

   

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