2012年11月14日水曜日

倭城マラソン(9) ウンチョン(熊川)城


2012年10月13日(土) 熊川(ウンチョン)城は信仰の接点

   ウンチョン倭城は大きい。標高184メートルの山頂に設けた主郭部を中心にふもとには船留まりと屋敷を構え、その間を巨大な石垣がつないでいる。山全体が城と言ってもいい。

   ウンチョン倭城は文禄の役で出兵(1592年4月)した秀吉軍が一年ほど占領した首都の漢城(今のソウル)を撤収し、長期戦を想定して半島南部の海岸線に沿って倭城を作り始めた時に築城され、兵を最終的に引き上げる慶長3年(1598年)まで使われた。

この山全体が城   前方の橋を右に渡ったところに登り口がある



緑色の部分は埋め立て地でプサン新港となる


城郭談話会の堀口健弐さん作成の縄張り図を使わせてもらった。
倭城研究シンポジウムⅡ 倭城から複写

   加藤清正と成果を競いながら、一番隊を率いてプサン、漢城(現ソウル)を落としてピョンヤンまで軍を進めた小西行長が在城した。

   この山に自分で城を作るまではウンチョン邑城を駐屯地にした、と伝えられるが邑城からかなり離れているので、同時に使用するには不便だったに違いない。
   山頂の城郭はさほど広くはないが、山麓の平地は広大で、現在確認されている以上に曲輪があったと思われる。

   山頂の曲輪群は遺跡として保護されていて、案内板もあり近くにトイレと休憩場所もあるが、その他の遺構は私有地の中であったり雑木雑草でアクセスが難しかったり、とにかく広いので城郭全体を一度に見るのは容易ではない。

   特に私のようにバスや電車しか使わない、と決めて歩く人には近寄りがたい存在だ。09年に初めて行った時はタクシーでふもとに乗りつけたは良いが、帰りはいちばん近いバス停まで40分歩いてへとへとになり、正直これが最後、と思った。

   しかし。

   気になることがあったのと、単純にもっと見てみたくなったので再び来てしまった。「名物」登り石垣を伝って海辺まで降りてみたい・・・できるかな?

   気になっていたのは09年に来た時に主郭に立っていた一枚の案内版だ。「聖地」以外はハングルなので日本に帰ってから辞書をひきひき文章を組み立てると「ここは韓国で初めてカソリック教のミサが執り行われた聖地です。」という文章に続いて「竹を伐採したので危険。歩く時は注意。」と親切に知らせてくれている。

09年撮影 今回は見なかった


   竹を伐採、ということは草を刈ったりして遺構の維持管理にも関与している、ということだろうか?教会に尋ねよう、と思った。

   小西行長はカソリック教徒だった。娘が嫁いだ対馬の宋義智(よしとし)をはじめ周りにもカソリック教徒が多かった。そのためスペインから来た宣教師セスペデスをウンチョンに派遣してもらったことはルイス・フロイスの「日本史」に詳しい。セスペデスは細川ガラシヤ夫人を信仰に導いた宣教師だ。

   行長は信仰を続けるために戦場に宣教師を呼び、山麓ではなくて山頂の曲輪に住まわせ、そこで宗教儀式を行うように依頼している。「日本史」には、セスペデスが馬に乗って山頂に向かうのがつらい、という内容の手紙が紹介されているが、確かに急な坂道はシンドイ。

   ウンチョン倭城は戦を目的にした純然たる砦として機能しただけでなく、小西行長を始めとする武将たちの信仰を維持、育成した教会でもあったのだ。さらに、その事実を後に韓国のカソリック信者が大切に受け止めて後世に伝えている。
   韓国にとってセスペデスは朝鮮半島に初めて足を踏み入れた西洋人でもある。

   

   現在簡単に足を踏み入れることができるのは、山麓部は別にして、青色の線で記したルートが中心になるようだ。他の曲輪は草が伸び放題、雑木や竹がはびこって残念ながら一人で入る込む勇気がなかった。登り石垣も周りの木々が邪魔して展望も悪く、この季節には歩けそうにない。もともと角ばった石が裸のまま露出していて、とても歩きにくいだけでなく危険でもある。

北側の登り石垣 09年撮影

09年撮影

09年撮影

   城域に入ってまず目を見張るのが長く伸びた石垣。斜面に沿って登る様はまるで龍が動くようだ。倭城によく見られる登り石垣だが、ここでは特に規模が大きいだけでなく、主郭部から三方に向かって伸びている。

   虎口の石垣は高さ2メートル半ぐらい。そのほかの箇所では、大ざっぱに測って1メートル50ぐらいかそれ以下だった。

   北向きの虎口から入って主郭を目指して歩きながら、常に全面から狙われる複雑な折れに感心する。

虎口が連続する







   












天守台




   主郭の隅に天守台か櫓台と思えるひときわ高い石造りの高台がある。






天守台への石段   09年撮影
天守台西側の側面 下の曲輪はまるでジャングル


   主郭からの高さはおよそ2メートルだが、西と南側は5メートルはありそうな高さだ。南側の海上から見ると登り石垣の先に、さらに高石垣上に天守があったとするならかなり威圧的に見えたに違いない。 

   一度海上から見上げて見たいものだ。

天守台から南へ下る登り石垣
天守台と登り石垣の接続部
セスペデスはウンチョン倭城について;

   『この熊浦城は難攻不落を誇り、短期間にじつに驚嘆すべき工事が施されています。巨大な城壁、塔、砦が見事に構築され、城の麓に、すべての高級の武士、アゴスティーニュとその幕僚、ならびに連合軍の兵士らが陣取っています。彼らは皆、よく建てられた広い家屋に住んでおり、武将の家屋は石垣で囲まれております。』
                                (中公新書「秀吉と文禄の役」) 

   熊浦(コモカイ)とはウンチョンの当時の日本での呼称
   アゴスティーニュは小西行長の洗礼名

   
   実際に見た人による具体的な描写が残る貴重な倭城でもある。


天守台の端から主郭を見る

主郭 天守台下から東側を見る  

   今回は山麓の屋敷跡をどうしても見てみたかった。

   城の北面にあった船溜まりは埋め立てられ、軍船で賑わったであろう海は消えた。住宅地になるそうで、プサン方面への道路の整備が進んでいる。

   プサン新港ができれば、おそかれ早かれここはプサン経済圏に組み込まれてしまうだろう。のどかな「ウンチョン村」にもいずれ、プサンから電車が伸びる日がくるかもしれない。

安宅船、関船が多数出入りした海は今・・・


   そのかつての海沿いの道を行くとやがて石垣が見えてきた。高さ2メートルくらいの石垣に囲まれているのは、ちょうど稲田一枚ほどの大きさの畑で、男性がひとり農作業をしている。

石垣の保存状態はいいですね


隣の果樹園を覗くと・・・崩れてます

かなり広い曲輪です
















    

   ニンニクを栽培しているそうだ。倭城についてはよく知っているが、「わざわざ日本から来たのか?」と不審な顔をされた。
   でも快く記念の写真を撮らせてくれた。

   


   ここも農業をする人が減っているようで、周りで作業をしている人の多くは、チネやヨンウォンから週末だけ汗を流しにきているように見えた。でもこのおじさんはプロらしい。


ふもとには無造作に崩れた石垣が残っている
地元のカソリック教会を訪ねると、「聖地」はほんとうだった。現地でお祈りをすることもある、と信者さんたちが教えてくれた。もう少し詳しく知りたい、と神父さんあてにメールを出して今返事を待っている。
   


   

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