2012年10月26日金曜日

倭城マラソン(3) スンチョン(順天)城

2012年10月9日(火)  小西行長 必死の脱出                    

コソン(固城)からスンチョン(順天)には直通バスがない。一度チンジュ(晋州)に出て、バスを乗り換えなければならない。夕方着いたのでバスターミナルの近くに一泊、翌朝スンチョン倭城に向かった。

   文禄の役(1592~1596)で明との和平交渉が決裂して秀吉の怒りを買い、再び出兵した慶長の役(1596~1598)に建てられ、倭城では朝鮮半島の一番西に位置している。

    築城は宇喜多秀家、藤堂高虎で、後に小西行長が兵13000人とともに城に入った。腰をすえて朝鮮半島に居座ろう、と長期戦を意図した作りが見られ、文禄期に築城された城とは大きく様変わりしている。たとえば遠くからも威容を誇る天守台。高い石垣の上に3階とも5階とも言われる天守がそびえるさまは武力だけでなく、相当に権力を誇示したに違いない。





天守台


   
   しかし慶長7年に築城を始めたものの、翌8年には秀吉の死によって日本軍が撤退したために、結果的に城としての命は1年と極めて短い。

   







天守台から主郭を見る



    明への道をひた走った文禄の役とは違い、慶長の役では全羅道が主要な戦場となった。倭城の大半が隣の慶尚南道にあるのに対し、スンチョン倭城は全羅南道に残った唯一の倭城だ。
   穀倉地帯の全羅道を抑えてまず兵糧を確保することが重要だった。

   


スンチョン倭城は交通の要衝スンチョン市の中心からおよそ10キロ南東の海辺にあり、市内のバスターミナルと鉄道駅を経由する市内バス21番が1時間に1本の割で出ている。乗車およそ20分くらいか。近い。

   



   

城跡は今、歴史公園になってきれいに整備されている。清潔なトイレも完備している。前回は近くの小学生の団体がバスで来ていて、すれ違いながら元気に「アンニョンハセヨ!」 返事を返すのにちょっと疲れた。



駐車場前のバス停






名前は「ウェソン(倭城)」













   


   私は2009年10月に初めて来たとき、他の倭城とは比較にならない規模と石垣の高さ、見る人を圧倒しようという意図が見え見えの威容に素直に気押されてしまった。

2009年10月撮影

 

ただ公園として整備する際に倭城らしさを損ねた点が指摘されており、見た目にも明らかで惜しい気がした。









   

    


   さらに、ここも激しい国土開発の大波を受けて周りの海がすっかり埋め立てられてしまった。近くの島と陸続きになり、工業団地化して船溜まりを偲ばせるもがなくなったのはさみしい。倭城はいずれも海辺にあるので、避けられない運命かもしれない。

2009年10月撮影

ほぼ同じ場所から見た現在の風景

  














   今回は公園としてきれいに整備された大手虎口から主郭部にいたる内郭部だけでなく、周辺に広がる外郭部をまわって城郭としての規模を実感したいと思った。

   城域は東西700m、南北600mと広い。しかも外郭部はほとんど私有地なので想像以上に動きが制約されてしまった。

城郭談話会の堀口健弐さん作成の縄張り図を使わせもらった。
倭城研究シンポジウムⅡ「倭城」から借用、加筆




大ざっぱに言って海に面した小山に内郭があり、丘を下ったところを南北に外郭線が伸びている。このほぼ中央が大手虎口と見られる。さらにその外縁を、低地をはさんで内郭を取り囲むように丘の稜線を利用して防衛線が設けられている。

(矢印 1) 北側から見た内郭 
すっかり埋め立てられて海らしさが残る唯一の場所












(矢印 2) 中央右手、駐車場から伸びる舗装道路の
       屈折部分から左右に伸びるのが外郭線




(矢印 3) 外郭線から望まれる天守台
    望遠は使っていない。














      


   



     外郭部の石垣はかなりはっきりと残っている。ただ私有地なので思い思いの形で使用されていて、どこまで慶長の頃を残しているか、は不明。しかも荒れている。
   

   まだまだ草がはびこる季節で、腰ぐらいまでの雑草をかき分けていると近くの潅木が大きく揺れ、イノシシが一頭飛び出して行った。こっちへ向かって来たら、と思うといなくなった後で冷や汗が出た。「日本人観光客、韓国でイノシシに襲われケガ」と新聞に小さく出ていたかもしれない。

北を睨む櫓台

外側を回る石垣の高さは1m2、30くらい
      石垣につられてドンドン中に入ってしまった。「なーに?」という声にビックリして振り向くと、真っ赤な唐辛子を採りながらおばさんがこっちを見ている。「倭城の写真を撮っています。この石垣は倭城のですよね?」 おばさんは黙って頷いた。
   倭城跡の畑で唐辛子を栽培しているとは・・・楽しいですね。唐辛子が朝鮮半島に初めて入ったのは文禄・慶長の役の時。不思議な巡り合わせを感じました。

   
   このスンチョン倭城で慶長8年(1598年)、壮絶な戦闘が繰り広げられた。

  


    その時の戦闘を描いた絵画が残っている。現在は所在がわからなくなっているが、どうやら明の従軍絵師が描いたものではないか、と言われている。「征倭紀功図巻」と呼ばれるその絵のレプリカが駐車場に展示してある。



    ここに描かれているのは慶長8年秋、明、朝鮮合同軍がスンチョン倭城に総攻撃をかけた時のものだ。

   戦況は硬直状態に陥り、長引いた。そのうちに明、朝鮮は秀吉が死んだことを知るにいたり、日本に帰ろうとする小西行長が城を出られないようにする戦略に出た。それを知った島津義弘、宗義智らが援軍として向かったが、李舜臣率いる朝鮮海軍と近くの露梁海峡で戦闘になった。この戦いの中で李舜臣は戦死してしまうが、その隙をついて小西行長はなんとか城を抜け出し、プサンにたどり着いた。

   詳細に検討したわけではないが、じっと見ていると遺構にピッタリ合っているように思えてくるから不思議。兵士の動きもリアルで絵を思い描きながら歩くと銃声やさけび声が聞こえて・・・きます。

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