2013年12月30日月曜日

倭城マラソン(16) キジャン(機張)城

12月11日 (木曜日) 午前    海辺の古城シカぞ住む機張倭城 


きょうは加藤清正が築いたウルサン近郊のソセンポ(西生浦)倭城の見学を予定していますが、途中のキジャン(機張)倭城に寄ることにしました。去年見落とした個所があります。

韓国のJR、KORAILプジョン(釜田)駅9時12分発のムグンファ号で行けばキジャン駅まで30分とかかりません。KORAILは地下鉄プジョン(釜田)駅から徒歩3分ですがソミョン(西面)駅からも歩いて行けます。韓国は列車を利用する人が少ないためでしょうか、これより早く出る列車は無くなってしまいました。

キジャン駅を出て前の道をまっすぐ行くと(2分ぐらいか)交差点があって、右に曲がればバスの停留所。いつも大勢の人が待っているのですぐわかります。そのすぐ後ろがキジャン市場。

この日、朝の気温は0度。バスを待つ間に雪になってきた。「雪景色の倭城が見られる!」と喜んだものの雪は間もなく止み、寒さだけが残りました。バスは6番のコミュニティバスで、倭城のある海辺とキジャンの街を循環しています。チュクソン(竹城)小学校前で下車。
キジャン城 本城(左) 支城(右)

キジャン倭城(本城部分)と登り石垣(ピンク矢印)
①本城 主郭 ②支城 朝鮮式石積み ➂支城 日本式石垣
倭城研究シンポジウムⅡ「倭城」から堀口健弐さんの縄張り図をコピーして使用

登り石垣(左側)と見学者用の階段

キジャン倭城も歴史的価値が認められて遺跡として保護されています。案内板とトイレも設置されていました。昨年もありました。その前はなかったのでここ1,2年の間に整備されたものでしょう。

去年来た時は10月だったのでまだ雑草が伸び放題、遺構はよく見えないし歩きづらかった。来る時期を今年は12月にしたのはそのためです。

周りの木が葉をすべて落としているので、登り石垣の横の削平地がよく見えます。石垣にそって空堀があったのでしょうか。平地は奥にまで続いているのが分かります。バス停からキジャン城を見上げるとまず目につく石垣は主郭と一段下の曲輪を取り巻いているものです。いつ見てもしばし佇んで見入ってしまいます。風格がありますね。

主郭を取り巻く曲輪の海側だけ草が刈ってあって自由に歩けますが、その他の三面は背の高い雑草が枯れたままほったらかしてあるので、服が枝やトゲに絡まって歩きにくい。

せっかく来たのだから、と意地を出して主郭を五分の四まで回り込んで北側の虎口から主郭に入ろうとしましたが、虎口に到達することもできません。直前であきらめて、草刈りのしてある通常の観光コースに戻りました。しかしその間にこれまで目にすることができなかった天守台の裏側が見られたのと、その下に伸びる深い空堀が見られたのは幸いでした。
登り石垣を登り切った個所 左下に削平地 右に大手虎口


大手虎口


真下の曲輪から主郭の石垣を見上げる。

主郭の石垣

天守台側の石垣


さらに回り込むと・・・枯草に阻まれて動けません。

この虎口(北側)から主郭に入ろうとしたのですが・・・。


天守台から主郭を見下ろす。


主郭の背後(西)の曲輪  強硬突破ルート
茶色の矢印は空堀の位置
その空堀は深く急な崖の下





主郭の北 この木までが本城の曲輪 枯木、枯草が邪魔して入れません。
矢印は支城の朝鮮式石積み
空堀は本城と西側の背後をはっきりと分ける境界線になっています。北に位置する支城との間には自然の谷が走っています。本城と支城を合わせて総面積は2600坪と案内板には書いてあります。数字ではよくわかりませんが、北に目をやると支城の石積みが長く伸びているのが見え、大きさが実感できます。

この石積みは朝鮮の鎮城(港を守る軍隊の城)を利用したものですが、その横に日本式の石垣があります。朝鮮式と日本の石垣が共存しているのは珍しいのではないでしょうか。

この部分は史跡に指定されていないのでしょうか、訪れる人はあまりいないようです。昨年は朝鮮式の石積みはじっくりましたが、さらに奥にある日本式遺構までたどり着けませんでした。このあたりだろう、見当をつけて森の中に入るやシカが一頭飛び出したのには驚きました。この一帯は木が茂ってはいるものの、近くの畑では農作業する人も多い。シカが住むほどのどかなのですね。

石垣は枯葉に覆われていて初めは見えませんでした。何もないなぁ、と帰りかけて振り向いたところに石が数個並んで見えたのでひょっとして、とその個所に登ってみると石塁の上に出ました。石塁はちょうどアルファベットの「W」の形に曲がっています。どういう目的だったのでしょうかね。横には深い空堀が並行して走っています。「W」の先は土塁になって朝鮮式石垣の方に伸びているようですが、ビッシリ篠竹に覆われていて中に入れません。確認できませんでした。
朝鮮式の石積み

石垣と並行する空堀(右下)

天端はあまり崩れていないようで意外でした。
石塁を取り巻く空堀がよくわかります。

空堀はそのまま麓まで下っています。


Wの形に屈折している石塁。

石塁に沿って空堀が周りをめぐり、そのまま麓へ下っているのが見えます。空堀と石塁を合わせると高さは7メートルぐらいにはなるでしょうか。この部分は支城とみなされていますが、本城とどのように役割を分担したのでしょうか。

築城は黒田長政。文禄年間に33、000人を動員して作られ、慶長の役には加藤清正も使用したと案内板に書いてありました。

余談ですが、城下の村に樹齢300年と伝わる大きな松の木があって、祠が建っています。韓国、朝鮮の村の中心にはよく大きな木が植わっています。この木も村人が大切にしてきたそんな木なのでしょうか。文禄慶長のころにあった木の2代目かもしれませんね。語り継がれてきた昔話など、聞いていませんか?



昨年のキジャン倭城探索は http://yorimichi2012.blogspot.jp/2012/11/blog-post_4.html

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