2013年12月28日土曜日

倭城マラソン(14) プサン(釜山)城

12月10日 (火曜) 午後   プサン(釜山)倭城はまだまだ元気



というわけでやって来ました、プサン(釜山)。

言うまでもなくソウルに次ぐ韓国第二の大都市。人口およそ三百五十万人を数え、オリンピック招致の声も出るくらい巨大な街です。プサン港は韓国経済をけん引する輸出の拠点になっていて常におびただしい数の船舶が停泊しています。キメ(金海)空港には外国からの定期便も多く、縦横に街中を走る地下鉄はさらに拡張を続けています。

日本でいえば福岡市って感じでしょうか?

ここは豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、小西行長率いる第一軍が上陸した地点で(1592年4月13日)、その後七年にわたって半島南部を占領することになる秀吉軍の戦略の要となった場所です。指令塔「名護屋」とのシーラインを維持し、軍船の運航を確保するために周辺には多数の城郭が建設されました。

特にプサン港を見下ろす丘陵に建てられたプサン倭城と、その下、港に近い小丘陵上に建てられ現在「チャソンデ(子城台)公園」となっている二つの城が豊臣占領軍の中心的役割を担いました。石垣は部分的に残っていますが、両方とも城郭としての形は失われてしまい、全体像は不明です。

倭城祉研究会が1976年に現地調査した時にはまだ遺構は残っているものの、かつて動物園として使用されていたり、住宅が多く建てられていたりして、すでに石垣はかなり崩壊していたようです。

およそ五年前の平成21年1月に私が初めて行った時は運動器具をそろえた近代的な公園に姿を変えていました。石垣はコンクリートで補強され、ただの石の壁になっていました。がっかりしてその後は足が向きません。

ただその時は時間的な余裕がなく駆け足で回ったことと、公園の周りの住宅に石積みが多いのが気になっていました。ひょっとして探せばもっと何かあるかのもしれないという気がして今回はまずプサン倭城とチャソンデ倭城からスタートすることにしました。


地下鉄チャッチョン駅出口
地下鉄一号線チャッチョン(佐川)駅を出ると大きな通りに出ます。その通りを北に向かうと左手の丘陵上に区立図書館が見えます。見上げるくらい高い。前回歩いた時も息がきれました。

子城台公園は通りの反対側です。

タクシーを止めて地図を見せながら、「クイップ トソクァン(区立図書館)」声を張り上げましたが思いっきり不審な顔でドアを閉められてしまいました。
山上、円形の建物が区立図書館 北端(写真では右端)の曲輪にある


登り切った上にも階段 バス停の裏にある石積みは?

道、というより階段があればひたすら登るしかありません。土地の人はみんな車を使うのでしょうね。階段では誰にもすれ違いませんでした。

途中であちこちの建物に石が使ってあるのがやはり気になります。石垣を利用したのか、近くから持って来たのか。だいたい倭城が近くにある所には石垣が多いのです。石積みの使用が目立ってきたら「近いな」と感じます。まずこの直観は外れたことがありません。それに篠竹が群棲しているとほぼ80パーセント間違いありません。
まったく関係ないのかもしれませんが・・・。


真ん中のこんもりした森がチャソンデ倭城

階段をのぼりながら振り向くとチャソンデ公園の森が見えます。

この辺りはすでに城の中で石垣が残っていて当たり前。あちらこちらに見える石や石垣に引き寄せられるように急斜面を登ります。図書館も隣の小学校(ともに当時の曲輪の中)も見えているので主郭はもうすぐです。

まず目についたのは大きな虎口、と見られる石積み。幼稚園や屋根つきの遊歩道にさえぎられていますが、縄張り図を参考にすると現存する虎口の一つのようです。
(1)は主郭 (X)は図書館 オレンジの→は辿った道 ピンクは連続した石垣と散歩道
(倭城研究シンポジウムⅡ「倭城」から堀口健弐さんの縄張り図をコピーして使用)

虎口 木の陰に隠れて見落とすところでした。

住宅と公園になっている


左下に小学校 この石垣が下まで続いているはずですが、見えなかった。

小学校の横の石垣は確認できませんでしたが、裏側の石垣は公園に残っています。ここから上はほぼ曲輪の位置が確認できます。 石垣も積みなおされた可能性はありますが原型をとどめているようです。 曲輪はすべて公園として整備しなおされていますが、広さは充分確認できます。

韓国人は大変健康志向が高く、公園のあちこちに健康増進のための運動器具が置いてあってたいへんな人気です。ジョギングする人も多く見受けられ、しかも年配の人が多いようです。その人たちの中で、かつてここは刀を差した日本のサムライがうようよいた城だと意識している人は、いないらしい。
石垣の上が主郭

主郭を取り巻く帯曲輪

広い運動場は主郭 左の角には天守台があった。

下の曲輪から見た主郭 帯曲輪となって右へ

主郭から見たすぐ下、北側の曲輪

主郭の石垣と帯曲輪  コンクリートが痛ましいけど崩れなくて安全か

虎口は崩れていても、石垣にコンクリートが打ってあっても城の大まかな形、縄張りは残っています。とてつもなく大きな規模からこの城の戦略的な位置は充分感じることができます。見方を変えると公園として再利用されているからこそ、大まかではあっても城を肌で感じることができるわけです。ブルドーザーを入れて土地の改造をしなかったプサン市に感謝したい気持ちです。

標高130メートルの尾根上に南北およそ520メートル、東西に190メートルの広さにわたって曲輪が作られています。築城は毛利輝元、秀元父子。文禄の役が始まっておよそ一年が経った頃に築城を始め、慶長の役が終了するまで使用されています。プサンの港を見下ろす高台に今も形を残す巨大な城を見ると、文禄慶長の役が朝鮮半島、明、日本に与えた影響の大きさを眼と肌に訴えるてくるようです。

1976年の城郭研究会が撮影した写真を見ると、主郭の虎口がきれいに残っていたり、高石垣が段々畑のように降りてくる様子がはっきり分かります。その虎口は消滅してしまい、段々畑状の曲輪は建物で見えなくなってしまいました。石垣は崩れたものも多いと思いますが、そのままコンクリートで固めて利用した部分も多かったのではないでしょうか。石垣の大まかな位置は当時と変わっていないように思えます。

九大「倭城祉図」などを見ると崩れたり、消えてしまった遺構は確かに多い。登り石垣もなにか痕跡でも、と歩きましたがアパートや民家がびっしりと建ちならんでいます。おまけに生活の匂いがするところに入り込むわけにはゆきません。しかしホンの少し想像力を働かせるだけで城の面影を追うのに十分な痕跡はあるのではないでしょうか。

何もないと思っていたのに、「たくさん」残っているじゃないかとすっかり見方を変えてしまいました。

主郭を取り巻く帯曲輪の石垣  その下を巡る散歩道

コンクリートで固めてない石垣が新鮮

かなり先まで続いています。


2 件のコメント:

  1. 久しぶりです。もしかして上から11番目の写真の地点が何処かご記憶していますか。最近釜山浦倭城の石垣を探していますが、相当する部分は見た事がありませんでしたのです。探してみたいですが、正確な位置が分かりませんでして(汗)

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  2. 8枚目の写真の縄張り図をごらんください。黄色い線が階段を登って虎口に入ってゆくでしょう?この線の矢印をこのまままっすぐ前に伸ばすと石垣にぶつかります。この辺りだったと記憶しております。間違えていたらごめんなさい。

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