2021年4月5日月曜日

沖縄の戦国時代③ 座喜味グスク

 沖縄の戦国時代を彩るヒーローがいます。その名は護佐丸(ごさまる)。護佐丸の名はいくつかのグスク(城)と関連して語られることが多いのですが、座喜味(ざきみ)グスクはその護佐丸が築いて居住したグスクです。建てられたのは1430年代のことで、京都では室町政権が確立し、応仁の乱が始まる30,40年ぐらい前になります。

そのころ沖縄では三つの地域(北山、中山、南山)に分かれて覇を競っていたのを中山の尚巴志(しょうはし)が統一王朝(第一次尚氏王朝)を打ち立てた頃で、護佐丸も尚巴志を助け、今帰仁グスク戦に参加した、といわれています。当時護佐丸は近くの山田グスクを拠点としていましたが、座喜味グスクを築城して新しい拠点にした、と伝えられています。足りない石材は山田グスクから運んだ、と言う話も伝わっています。

周りからひときわ高い小山(標高125メートル)に位置していて、麓から緩い坂を登り切った先に、特色ある張出のある石垣が見えてきます。

面積は7,386平方メートルで、沖縄のグスクとしては中規模の大きさ。今帰仁城グスクが37,000平方メートルですから、およそ5分の1ぐらい。コンパクトさが分かります。






重なり合った二つの「六角形」にも見える珍しい形の石垣は、高さが最高7メートルに及ぶもので、防御性はきわめて高い。まず「六角形」というユニークな形からも明確な目的のもとに築城されたグスクであることが察しられます。




六角形の角の外側は張出になっていて、グスクの周り全方向に向けて張出が設けられ、きわめて多面的な防御が可能になっています。さらに石垣の上は歩行が可能なだけのスペースを持ち、必要な方向の張出へ兵員を動員することも可能です。どちらの方向から敵が来ようと、オマカセ。


一の郭

一の郭に残る建物の敷石

 二の郭(左)と一の郭(右)を結ぶ門の上

二の郭(手前)へ入るアーチ門


石垣の上はかなり広い

ちなみに石垣の上を自由に歩けるのは座喜味グスクと中城グスクだけ、と言われています。私も歩いてみましたが、確かに中城グスクより幅も広く歩きやすかった。

もし敵兵が二の郭に入り、左側の壁に沿って奥へ回り込もうとしても先は袋小路になっているので上からの攻撃にさらされるうちに打ち取られてしまいそう。

二の郭の門を入って左へ行くと

石垣に沿って自然に曲がる

見えなかった奥が見えて来ると・・・


先はデッドエンド 

座喜味グスクには御嶽(うたき)がありません。北山の今帰仁城グスクを滅ぼした後も北方を見張る、という純粋に軍事目的に築かれたため、廃城になった後も御嶽として使われなかった、とみられています。

こうした説明は現地の案内書等に書かれていることですが、グスクの構造について戦術的な解釈がされているグスクは余り例がありません。それ自体が座喜味グスクの特殊性を示しているのでは、と思います。

築城主、築城時期、目的等すべて分かっているのもこのグスクぐらいで、多くのグスクの中できわめて珍しい例と言えるのではないでしょうか。

珍しいものがもう一つ。一の郭、二の郭への入口になるアーチ型の門がありますが、アーチ型の真ん中にクサビが入っているのです。これは他のグスクには見られない形で、座喜味グスクだけのものと言われています。

二の郭から一の郭へのアーチ門

アーチ門に用いられたクサビ

二の郭へのアーチ門のクサビ















さてその護佐丸ですが、後に勝連グスクに依って勢力をつけつつあった阿麻和利(あまわり)に対処するため、座喜味グスクを離れて中城グスクに移ります。しかし1458年に戦死することになりますが、中城グスク、勝連グスクの項でもう少しお話ししましょう。

世界遺産のグスクでは珍しく入城無料 
グスクを出る頃 近くの小学生らが絵を描きに来ていた


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